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六本木ミッドタウン傍です。
しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
不幸にして私は、自分の顔を見たことがない。私はそれを気安げに、私の前にぶら下げているのである。私が私の顔を知るのは、むしろ反対に他人の顔によってである
人は自分があろうとする姿以外にはありえない。このことが実存主義の第一原則である
希望を持つから勇気が生まれるんじゃない。夢を持つから勇気が生まれるんじゃない。勇気を持つことで希望、夢が生まれるんだろう
必要なのは、勇気ではなく、覚悟。決めてしまえば、すべては動き始める
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好きって一言だけ。一言だけなのに勇気がない。勇気があれば未来が変わるかもしれないのに…、自分の気持ちを誤魔化して伝えれないまま終わっちゃうのかな?
好きなら告白すれば良い。相手に恋人が居るからって怯むのなら貴方の恋はその程度
女性の運命は愛される男によって左右される
恋は盲目。愛は猛毒
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宗教というのは、どれも一元的な世界にもどることを説いている。
それは、生命の歴史の中で、私たちがまだ幸せだった時代にもどることである。
それは、進化の過程でいつ頃のことであろうか。魚類には自我があるのだろうか。
爬虫類(ワニなど)になると、すでに自己意識のあることは外から見ていてあきらかだろう。
いずこにも神が存在するというアニミズムの時代を経て、私たちの意識は、自我の確立とともに
人格神(一神教)の認識に進化する。そこでは、人格神にひれ伏して絶対的教えに帰依したり、
その人格神の超人的能力を仮想することで、ひたすら救済を乞い願う信仰スタイルをとる。
しかし、さらに意識が進化すると、私たちはそういう人格神を超越して、“神なき神の時代”に入る
ことができると、私は考える。つまり、私たちのこころに「野の花のように生きられる」リアリティーを
取り戻すために、必ずしも全知全能の神という偶像は必要ない。
もはや何かに頼らなければ生きられない弱い人間であることから脱却して、己の力で、まさに神に頼らずに、神の前に、神とともに生きるのである。
宗教学では、このように信仰が進化するとう考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的
に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない
信仰の形がありうると信じている。
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自分のことを、この世の誰とも比べてはいけない。それは自分自身を侮辱する行為だ。
わたしたちは踏みなれた生活の軌道から放りだされると、もうだめだ、と思います。が、実際はそこに、ようやく新しいものが始まるのです。生命のある間は幸福があります。
自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる。
うさぎ型の人は、うさぎのようなペースで生きるのがいい。うさぎのような能力を発揮するだろう。かめ型の人は、かめのようなペースで生きるのがいい。かめのような能力を発揮する。世の中には、さまざまな能力がある。なぜかといえば、さまざまな能力が「必要だから」である。さまざまな能力が活動することによって社会は成り立っている。